『グアムの朝刊』2025.5.14「グアムは私たちを温かく迎えてくれました」かつての難民、ホア・グエン博士が「オペレーション・ニューライフ」を振り返る

2025年5月14日 Pacific Daily Newsより抜粋、要約

ホア・ヴァン・グエン博士は毎朝コーヒーを飲むために起きると、窓の外に広がるアサン・ビーチを見つめる。そこは1975年、彼と家族がベトナム難民キャンプに収容されていた場所。

今年は、グエン博士とそのパートナーが「アメリカン・メディカル・クリニック」を開設してから20周年になる。同クリニックは現在、3つの拠点と46,000人以上の患者を抱え、グアムで最大の医療提供機関となったことを、グエン博士は誇らしげに語る。

また今年は、1975年に実施された人道的支援活動「オペレーション・ニューライフ」から50周年でもある。この作戦により、グエン博士、彼の母、そして3人のきょうだいを含む10万人以上のベトナム戦争の難民がグアムへ避難した。

1975年のサイゴン陥落以降、難民たちがアメリカ本土へ移住するまでの数週間から数か月の間、多くの人々がグアムで暮らしていた。彼らはクォンセット・ハット(半円筒形の簡易住宅)やテントで生活し、そのエリアは「トン・シティ(ブリキの街)」や「テント・シティ(テントの街)」として記憶されている。

サイゴンからグアムへ
グエン博士が13歳だった1975年4月、サイゴンの学校で授業を受けていたとき、家の運転手が彼と兄、そして2人の妹を迎えに来た。父親が家に戻るように言っていると知らされ、彼らは車に乗って学校を後にした。

「“ちょっとした旅行に行く”って言われたんです。僕はテニスが大好きだったので、テニスラケットを持っていきました」とグエン博士は語る。グエン博士、兄弟たち、そして母親は空港へ連れて行かれ、そこで軍用のC-130輸送機の荷台に乗せられた。父親のトゥオン氏はサイゴンに残った。家族が再会できたのは、それから10年以上も後のこと。

サイゴンを飛び立った後、グエン一家が最初に見たアメリカ領の地はアンダーソン空軍基地だった。「溶接された大きな格納庫だけを覚えています。床にはたくさんのマットレスが敷いてあって、そこで最初の夜を過ごしました」とグエン博士は振り返る。「翌日、僕たちはアサン・キャンプに移されました」

アサン・ビーチのキャンプは、もともとは軍の病院として使われていましたが、ベトナム難民の到着前に、海軍建設部隊がわずか2日間で難民キャンプへと改装したと、アメリカ国立公園局は伝えている。このキャンプでは平均して1日約1万人が収容されていたが、グエン博士によると、彼の家族は初期の到着者の一組だったという。

テニスラケットを使う機会はあまりありませんでしたが、昼間はほかの子どもたちと一緒に海辺を走り回ったり、釣りをしたりして過ごしたと語る。毎晩、キャンプでは映画が上映されていた。「本当に楽しかったですよ」とグエン博士は語る。

「理解するには若すぎた」
1975年4月30日の夜、映画を観ている最中に、サイゴンが北ベトナム軍の手に落ちたという知らせが届いた。「途中で映画が中断されて、ニュースが発表されたんです。そして母が泣いていたのを覚えています。でも僕たちは、まだ幼すぎて何が起きたのか理解できませんでした」と彼は話す。サイゴン陥落の意味を子どもたちは完全には理解していませんでしたが、「もう故郷に戻れない」ということだけは分かっていた。

グエン博士によれば、自分たちは幸運にも早い段階でベトナムを脱出できた家族の一つでした。父親のトゥオン氏は土木技師で、グエン一家はサイゴンでは非常に裕福な生活を送っていた。所有していた家のひとつはアメリカ大使館として使われ、もうひとつは将校クラブとして利用されていたそう。アメリカ側が、彼らを飛行機でいち早く国外に脱出させる手配をしてくれたとのこと。

1975年4月30日以降に脱出した人々の多くは、海路での逃避を余儀なくされた。「彼らのことを“ボートピープル”と呼びますが、最も過酷な思いをしたのはその人たちです」とグエン博士は述べる。彼らは海賊や荒波に苦しみ、多くは命を落とした。

もし自分たちがサイゴンに残っていたら、アメリカとの関係のために刑務所に入れられていたかもしれない、と博士は語る。実際にその運命をたどったのが父トゥオン氏で、彼は共産主義の「再教育キャンプ」で10年以上を過ごした。その間、一切の連絡がなく、「父はもう亡くなったと思っていた」とグエン博士は語る。

グアムからアメリカ本土へ
アサン・キャンプに到着してからは、すべてが急速に動き出した。家族はそこに約2週間滞在した後、フロリダ州フォートウォルトンビーチへ移された。

母親のミー・ハンさん(現在91歳)は、今もフロリダに住んでおり、息子カインさんと暮らしています。グエン博士によると、母親はかつてエンジニアの妻で、働いた経験がまったくなかったにもかかわらず、子ども4人を養うため、朝7時に家を出て、夜中に帰宅する生活を送っていた。「彼女は2つの仕事を掛け持ちして、一度も文句を言いませんでした。母親には誰もかなわないんです」とグエン博士は語る。

家族はモバイルホーム(移動式住宅)に住み、グエン少年は夜になると母が働くセブンイレブンに一緒に行って時間を過ごした。「2回も強盗に遭いました。本当に怖かったです」と彼は振り返る。4人のグエン兄妹は皆、芝張りのアルバイトをし、建設されたばかりの家の庭に芝を植える作業を1時間あたり25セントほどで行っていたそう。

グエン博士の最初の仕事は、デニーズの皿洗い。最終的にはチーフ皿洗いに昇進した。「家に帰って母に『昇進したよ』って伝えたら、ものすごく喜んでくれました」と彼は語る。今でもフロリダに帰省するたび、そのデニーズの前を通るという。

大学では、アラバマ州南部のモービルにあるサザン・アラバマ大学でコンピュータサイエンスを学んだ。卒業後はコンピュータエンジニアとして働いていた頃、兄弟たちが「父がまだ生きているらしい」との情報を得た。「キャンプに送られると、音沙汰がまったくなくなるので、父はもうどこかで亡くなっていると思っていました」と彼は語る。

家族は書類を整え、父トゥオン氏のアメリカ渡航を手配し、フロリダのトレーラーホームで母と再会した。しかし、収監中に患った慢性病の影響で、彼は8年後に亡った。それでも最後の数年を共に過ごせたことは「何よりの祝福だった」とグエン博士は語る。

その後まもなく、彼は空軍の奨学金制度に応募し、医学部に進学。医学部時代は厳しい生活だった。「米の袋とフリトレーのポテトチップスだけで4、5年食いつなぎました。それしか買えなかったんです」と笑いながら語る。兄のカインさん、妹のミー・ドゥックさん、ミー・フォンさんも皆、医師となった。

グアムへの帰還
空軍での研修医課程を終えた後、グアムに戻る機会が訪れた。アサン・キャンプでの記憶が心に残っていた彼は、島へ戻ることを選んだ。それは難民としてグアムに初めて降り立ってから、ちょうど20年後の1995年のこと。

1996年には、アンダーセン空軍基地に到着したトルコからの難民の健康チェックを行う任務に就いた。「飛行機から最初に降りて彼らを迎えたのは、僕でした」と博士は語る。20年前に自分が難民だったことを思えば、「一生に一度の名誉」だったと振り返る。

しかし、飛行外科医として健康な兵士ばかりを診る日々にやがて物足りなさを感じるようになり、グアム記念病院での夜間勤務を始めた。1990年代後半の台風の中でも診療を続け、停電時には車のヘッドライトで救急処置を行ったこともあったそう。

グエン博士は島の生活を大いに気に入り、現役勤務から州兵に移行した後もグアムに留まった。2005年には「アメリカン・メディカル・クリニック」の設立に携わった。新型コロナウイルスのパンデミック中は、知事の医師諮問グループの責任者として活動。

「グアムは私たちを温かく迎えてくれました」と博士は家族の歩みを振り返りながら語ります。「多くのベトナム人を代表して言いますが、私たちはこの島に本当に感謝しています」

今、彼が毎朝コーヒーを飲むとき、窓の外に見えるのは1975年、彼が初めて避難所として過ごしたアサン・ビーチ。「毎朝、あそこが僕のいた場所だったって思い返します」と博士は言う。「あれ以上の景色はありませんよ」


様々な感情がよぎる感慨深いお話でしたね

多くの移民を受け入れてきたアメリカの歴史、さまざまな戦争の記憶が残る今も繰り返される戦闘、深まる世界の分断、私たちは後世に平和な社会を残せるのか考えてしまう出来事が日々起こっています。

昨日はイギリスのビザ要件の大きな方向転換が発表され、移民数を激減させる厳しい方針が実施されるようです。EU離脱後移民数が減るのではと思いましたが、ブレグジット以降も旧植民地や周辺国からの多くの移民がイギリスに定住し国家財政を悪化させているとしています。

「戦争を知らない世代」と呼ばれ、平和な時代を生きてきた私たちは、「戦争を知らない世代」を残せるのでしょうか。

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